歴史散策

十津川は、奈良からも京都からも遠くはなれ、陸の孤島と言われるほど山深い、厳しい環境の中にあるにもかかわらず、日本の歴史のさまざまな場面 にその名は見られます。

「古事記」「日本書紀」の神武天皇東征の際には、八咫烏が道案内に立ったとされており、その烏が祖先であると言う説。これはあくまで神話ですが、これをはじめとして、壬申の乱(672)では、後に天武天皇となった大海人皇子の吉野御軍に参加し、このときの戦功により、三光の御旗と「とをつ川吉野の国栖いつしかと仕へぞまつる君がはじめに」という御製を賜り、さらに租税を免じられたと言われています。

源平の争乱の元となった保元の乱(1156)にも「十津川の指矢三町、遠矢八町の強勢が京へ馳せ上った」と、その戦記である保元物語にも見られます。

南北朝時代に入ると、十津川は一貫して南朝方に属し忠誠を尽くしました。後醍醐天皇の皇子で鎌倉幕府討幕の中心的な役割を果 たした大塔宮護良親王の十津川落ちでは親王を守護し、太平記にも見られるように大塔宮がこの十津川の地で討幕の策を巡らせていたようです。また、吉野・賀名生の行宮警備にあたるなど郷民の功績も多く、後醍醐、後村上、長慶の三帝の御綸旨も数通 におよびます。

その数十年後、楠木正成の孫の楠木正勝が最後まで南朝方につき十津川に立てこもったことなどもあり、十津川には尊皇の気風が育まれました。足利幕府の成立以後も守護大名は十津川を放棄し続け、十津川は封建支配の外に置かれ、玉置山は領主化していきました。

その後、豊臣秀吉による太閤検地が行われて初めて封建支配に組み込まれようとしますが、さしたる租税も徴収されず、実質的には十津川は治外法権として一種の自治を保ち続けます。

幕末には、文久三年(1863)の天誅組の変に呼応して挙兵したのをはじめ、勤皇、尊王活動をするものが多くなり、幕府支配を脱して朝廷の管轄に入るとともに御所警備にあたるなど中央での活躍もめざましく、明治4年(1871)には郷民全員が士族に列せられました。宮廷警護については、薩摩、長州、土佐の三藩以外では十津川郷士のみが任ぜられたといい、それほど十津川郷の勤皇精神は高く評価されていました。

十津川郷士は武士団として歴史も古く、このように古来より数々の国事にかかわってきました。都から遠く離れた山間の地に安住しながらも、事が起これば国事に尽くすという気慨は常に失われず、誇り高い十津川郷士の心は現在も脈々と受け継がれています。

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